ルールという障害

ようやく涼しくなったなーーと見せかけて30度超してくるあたり、今年の夏も侮れません。皆様いかがお過ごしでしょうか。

脳みそが250%フル回転の更正申告も終わり、ようやくほっとしています。これで税金が戻るかどうかはまた別問題ですが。高額所得者でもないのに、税金だけは高額設定というのはさすがに生活ができません(T△T)

新作のほうはもう、プロットもなにも全部できてますので、あとは描くだけなんですが、こういったらばた業務外の事に振り回されて、なかなか進行できずです。ォウア

きょうはちょっと、「ルール」についての発見を記録します。

自分は仕事でもプライベートでもよく、ルールを作る、という立場を経験します。経営するお店だったり、教室の管理役だったり。ルールは、そのコミュニティを円滑に運営するために、必要なものです。

ルール作りというか、コミュニティの運営で一番面倒なのは、「常識を外れることで、目立とう(利益を得よう)とする人」や「個人的な不快を公的なルールで排除しようとする人」の対応です。

自分は、前者に対してルールを作らなければならないと感じ、後者にはまるでカウンセラーのように長時間の説得を強いられます。コストなんてもんじゃなく、もう労役って感じです。

しかし先日、おすすめにしたがって流し見ていたYouTubeがきっかけで、これは、自分が「ルールによる平和維持の絶対正義性」に疑問を持たなかったからではないか?と気が付きました。

自分は、みんなにとって利益が均等にいきわたるようなルールを考えようとします。わかんないです。だから、自分の無能さを補うべく多くの書籍も読みましたが、連日のこの繰り返しはそのうち、コミュニティの先細を予感し、そして終わりを願うようにもなっていました。

しかし今回、そのYouTubeで「非ルール」という概念を知りました。つまり、おもいやりとか、気づかいというやつです。要するに、すべてをルール化するのは、あまりにも非効率、コスパが悪いんだということです。

自分が無能だからルールができないんだと思っていたけど、そもそも、それに無理があった、ということです。

そしてこれは「ルールにないから何をやってもいい」「ルールをきちんと整備してくれ」という人間に対して「ルールはすべて名言化されるものではない」、という、それまでのその人たちの常識をひっくり返す発見です。

つまり「ルールがなければ罰則がない」というその人たちの常識は「見えないルールを破ることで罰則につながる可能性がある」という抑止力として置き換わることになります。じゃあどこまでが良いんだ?という線引きがないことで、自分で考えてくれるようになるのです。

コミュニティを作ることは快適なゆりかごを提供することではないんだと、ようやく気付けました。とかく日本人はルールの中で無思考で遊ぶことを好みますが、このルールってのが実は、よほど大きなコミュニティでない限り、それほど効率的ではないんだということを学びました。

わり。