この挿絵のマイアイドルは、下書き状態です。
下書きは一般的な呼称ですよね。次の本番は清書? 清書って言うとすごく線とか文字とかのイメージです。この下書きは現在1枚のレイヤーです。この状態だと、形の修正がすごく簡単にできるので、この状態で描き進めるのはすごく楽しいです。
そして、この上に本番というか、本描きをするんですが。上からこの絵を塗潰すことになりますよね。線やカタチを綺麗に整えて。
これがすごく、絵の魅力を下げちゃうんです。(T△T)
この下絵をどうやって生かすか。せっかく、偶然がつくりだした可愛さのようなものを、見ながら描いたって、そうそう同じものを描けるものではありません。
油絵のように、この上から筆を置いていくという作業が結局正解になりそうですが、それだと時間がかかりすぎます。
ンなことを考えてたら。ちょっと似たようなことを思い出しました。
武術です。
自分は過去に学んだ形意拳という型が好き(動きがめっちゃシンプルなの)で、いまだによく一人練習をしていますが、これは太極拳、八卦掌と合わせて内家拳とよばれる流派です(え? え? 何の話?
太極拳を覚えたての頃は「これをどうやって実戦で使うか」ばかり考えていて、そういう本やDVDを読み漁りました。形意拳を学ぶようになると、形意拳の動きはすごく攻撃的で、実践向きだなって思うようになりました。
で、ヘッドギアつけてのスパーに臨む訳ですが、形意拳の基本五行拳というものはこれ、結構隙だらけなんですよ。もっと速い人がやれば違うのかもですが、自分レベルだととてもじゃないけど、実戦で使えない。太極拳などはいわずもがな。
これはおかしい、って若き日の高石(今も若いけどな)は思う訳ですよ。やっぱり、中国武術はマンガの世界だけかと。
で。当時のある日。ボクシングのアマの試合に出るという若者がいて、自分が練習相手となりました。体格が丁度良いと。当然武術的な動きは捨てて、ボクシングスタイルでお相手しますが、これが思ったより当たっちゃうんです。あれ?なんで慣れた型ではなく、不慣れなジャブがあたるんだ?
おかげでよい練習相手となれましたが、これは疑問です。何故ろくに練習もしてないボクシングスタイルのほうが調子良いんだ?とちょっと考えたら(実は寝る前に結構考えた)、ひとつの答えにたどりついたんです。
まず、武術の型って、型通りに使うんじゃない、って事。内功って言うようなんですけど、内家拳の打撃は、体の中の反発力みたいなものを使って撃つ感じだと自分は考えています。だから、ジャブも、おそらくボクシング的な撃ち方をしてなかったのかもしれません。
次に、体が崩れないこと。功夫はしゃがんだり片足になったりしますが、ボクシングは両足ついていられますから、そうそう崩れません。
最後に、骨で打てること。あんまり筋肉使わないから、疲れないんです。
結局「普段の練習は、自分の内側を育てるためにある」訳で、「その型の習熟」という理由だけではないっぽいんだ、って気づいたんです。つまり、型を崩す為に型を練習する、みたいな。
これらの気づきは、今もなお、自分を支えています。
でぇ。これを現代の絵描き理論に統合します。ようやく絵に戻りまする。
「下書き」ってのは、その輪郭を保持するということより、「こう描くと気持ちよくなる」みたいな「内功を練るところ」なんじゃないかなと。本番でその下書きが全く同じように出る必要はなく、この内功をいつでも出せるようにすることが下書きなんんじゃないかって思いました。
つまり、清書で絵の魅力が下がるのは、「練習(下書き)の型=輪郭や色をそのままコピーしようとしていた」から。本来、清書とは、下書きで練った内功を使って、さらにひとつ前進することなんじゃないかと。
「功夫を積む」とはそういうことなんだ、と、絵と武術を通して、なんとなく、解りました。
長いわりになんとなくかよ