日本の夜明けとえろ同人サークル

100509.jpg 男なら誰でも、一度は歴史の登場人物の生き方に共感を受けたりするものではないでしょうか。先日の夜、坂本龍馬の特番をTVでみましたが、同じVTRを何度も何度も何度も何度も流すので、途中で眠くなってしまいました。最近、TVはオンタイムで見ることは少なくなり、録画して、あとでCM飛ばしながら見ることが多いのですが、珍しくオンタイムでみてしまって、ああやっぱり録画でみればよかったと後悔してしまいました。
 
 今日のお話は、なんとなくそんなんです。今日の挿絵は、私のとても共感する歴史上の人物、ドズル・ザビです。
 
 
 

 
  実際もう、TVは、「一メディアのヒトツ」に成り下がったのかもしれません(突然だね)。過去の私達にとってTVは雑誌や新聞とは別格でした。そこは「別世界」であり、「真実」であり、「絶対的な優位」でありながら、我々の「下僕」でもありました。だから私達は「TVに出ている人」を「スゴイ人」と無意識に思って育ってきました。TVで言う事を「絶対的な事実だ」と思ってしまうこともありました。
 
 でも、もう既に皆様もご存知の通り、TVはヤラセなんかあたりまえ、自分達に都合のいいことしか流さない、カネに支配されたモノ達の濡れ手に粟をゲットできるビジネスの場所です。見る者の都合はどうでもよく、スポンサーや作り手の都合が優先されます。
 
 CMまたぎやモザイクぼかしなんか、あれで腹が立たない視聴者はいないと思います。でもそれをやるのは、視聴者がイライラするよりも、騙してでも、TVを見せることが必要だからなのかもしれません。
 
 とすると、HDレコーダーなどの登場も手伝って、録画してあとからCMスキップしながら見るという私のような見方をする人も増えてくると思います。これは結局、いままでよりもさらにCMを見なくさせてしまうことになって、番組側が強制したCMまたぎなんかの作戦が裏面に出たような格好です。
 
 ちょっと前、ホリエモンとかがクローズアップされていた頃。ビジネス的なロジック(=これは世間的にこうだよねみたいな、日経プレジデントから引用されるな自分に都合の良い理論)、を多用して、人の裏をかいたような商談や、人に嫌な思いをさせても売り上げを上げることがカッコイイ!っていうような雑誌がいくつもありました。アメリカ的、という感じの風潮なのでしょうか。
 
 でも我々の住む国は日本ですから、いくらアメリカの真似をしたくたって、レディーファーストもなければ、家族と会社の比重も違いますし、下町工場が支えてきた社会の仕組みなんかもまるで違います。争いの多かった、多民族国家で培われて来た生き方ですから、同一民族の中で楽しく暮らしてきた私たちには思いもよらない思考があると思います。
 
 あれ、いつの間にか余計な話になってしまいました。人を騙して、出し抜いて、お金を得ることができたって、私は瞬間的な刺激にしかならないような気がします。ウチが今でもこうやってサークル活動を細々続けていられるのは、まさにその実践……え、なにそんな偉そうなん?なんかウチが素晴らしいサークルみたいですが、でもねでもね私は買った人ががっかりするのがいちばん怖いので、それだけは絶対避けたいと思いながら作品を作っています。でもDL評価の「黄色」はがっつり入っているので、がっかりされた方も居るはずですが……はぃ。とにかく、騙すことがカッコイイ、わが社が成長する為には仕方ない、ってのがクールなんてのは瞬間的な刺激にしかならなくって、良くないと思います。
 
 我々は地球の一部なので(ぇ)、瞬間的に成長はできないんです。木々や、動物達、カイワレ大根でさえ、瞬間的に成長しません。みんなゆっくり、時間をかけて成長しています。でも、死ぬ時はかなり急速に時間は流れます。病気なんかになると、その時間は成長の何倍もの速度で強烈に流れ始めます。急激な変化はつまり、良くないほうに向かう時なのかと、思います。
 
 どうです、この意味不明なグローバル。あ、新作情報は、また例によってお話に懲りすぎてます。どうしてこう、そっちにいっちゃうかなぁ……。もっと、自由に、もっと素直に……まさに岡本真夜です。
 
 あ。……ああそうか、今思いついたのですが、その前途の「アメリカ的なビジネスカッコイイ」になった時代、私たちのチョイ上の世代が部長課長になったころですよ、そのときに日本もこれからああなるんだ、って、日本のオヤジ達のそれまで行ってきた義理人情運営ダセえよになって、その伝統と言うか、それまでのやり方をゴミとして捨ててしまったことで、今があるのかなぁ……って、あ、おお!奇跡的に冒頭の龍馬に戻りますが、鎖国をやめたからいけない、ってんじゃなくって、日本人は自分の中にブレない「核」みたいなものを持ってないのかもです。そうか、同一民族の中で楽しく暮らしていたら、外部の圧力により、その核を試される機会がないからかな。
 
 いつか自分がその存在を、外部の手のものによって変えられようとしたとき、私は受け入れるのかしら。そっちが楽しそうなら簡単にいきそうな気もするなぁ……。日本人の核とは、私の核とは、いったいなんなんだろう……?
 
 問題提起して終わるって、カッコもつくし考えなくてすむから楽でいいけど、……さ。なんかやっぱカッコ悪いすね。