物語の中の「戦い」と「死」

100220.jpg 関東平野は月曜から暖かくなるみたいですよ。待ち遠しい限りです。冬もラストスパート、皆様いかがお過ごしですか。実は最近、ちょっと内職的なお仕事にありつきまして、何とか家賃はそれだけで払えそうなんです。なので、DL作品を製作にゆったり時間が取れるようになりまして、もうすこし濃い物語をお届けしたいな、なんて思っています。

 じつは今日はその物語のことなんですが。私は物語のキャラの「死」をかきたくないのです。できれば、敵でさえも。




でも、モンスターはしんじゃってますので、どうやらモンスターは「殺してもいい」って自分で思ってるみたいです。ではなんで、キャラの死をかきたくないのかってのは、真っ先に思いつくのは映画でもマンガでも、死が「演出の為だけ」に用いられている作品が多すぎるから、それに対して憤りを感じているからかな、なんて思っています。

 でもこのあと「私はリアルで知人を亡くしているから、死の場面には云々」的な話になってしまうようなら、そこらじゅうに書いている人いますし、別に私が知人の死を乗り越えたことを自慢げに書いてもビミョーなので、そんな理由ではありません。それは、あまりに舞台が整えられ、劇的な場面での死は、この場面を語るためだけにこのキャラは殺された=稚拙な作者のオナニーによって殺された、ように感じてしまうのです。それに、キャラの死はどんな状態だって大概劇的になるから、物語ることを放棄した作者にそんな場面の為だけに殺されたキャラがまるで浮かばれません。これは私が巨大な目に小指の爪よりも小さな口に鋭角にとがったアゴのキャラを描きたくないのと似ています。記号をならべることで作者ヅラすることが恥ずかしいことでくだらないと思うからです。

 でも、くだらないとか偉そうなことを言うのは、それが完璧に上手く出来て結果を残した人が言うのなら説得力もありますが、劇的なヒトの死の場面も描いたことはない、巨目アゴ尖り(←なんて読むんだろ?)キャラを描いて大ヒットさせたこともない私が言うのは実に滑稽である事を認めざるをえません。だから、私は出来もしないのに「あんなのはくだらないよ」と言う、ネット上には特によく居るタイプのコンプレックス君なのかもしれません。

 話、戻します。私は作品の中でよく、無意識に「バトル」をえがいています。何となく絵になるからなのかもしれません。でも、戦いとは勝者と敗者を決めることなので、どちらかが負けます。負けた方は、物質的にも精神的にも何らかの負圧が掛かることになります。描いたことはありませんが、場合によってはそれが「死」です。このバトルを無意識にえがいてしまうのはラーバタスが盛り込もうとしている世界観に起因すると思います。

 ラーバタスの世界はRPG的な世界観を盛り込もうとしています。そのRPGを具体的にいうと、私の中ではドラクエの1~3ぐらいまでのRPGです。キャラクターは「自分」であり、まだ見ぬ世界へと旅をしていく物語です。でも物語の部分は小説というスタイルをとるので、古き時代のRPGにおける私のもっとも大好きな部分「誰かではない、自分が冒険」という部分を皆さんにどうやって上手く届けるかについてはかなり悩んでいます。

 その悩みはとりあえず置いときまして、そのRPGの世界を取り込もうとすると、「バトル」避けて通れないどころか、LV上げの戦いに明け暮れるゲームといっても過言ではないはずです。実際、小学生の私はこの与えられた殺戮に熱狂しました。今まで勝てなかった敵に勝てるようになっていく自分に。これはゲームという中の登場キャラ「モンスター」を殺すことで、自分が快感を得ている状態です。

 細かいレベル上げのバトルよりまた、大きな目で捉えても「この国を守る為には、敵の親玉を殺さなければならない」訳で、ここに話し合いの余地や共存の可能性などは語られません。敵の親玉だから殺しても問題ない、という考え方は、わが星で今尚続いている戦争そのものです。

 普段、普通に生活している私は、「殺生はよくないよ」と、思っていると思います。でも、モンスターを殺しまくるゲームに熱中していたのです。(あっと、でも、「モンスターハンター」はダメでした。いちばん最初に草を食べているモンスターを横から襲い掛かるってのがあるんですけど、私は好きになれませんでした。)それに、私の大好き食品のかなり上位に「豚丼」が入ってしまいます。これもよく言われることですが「動物喰っててなにが殺生はダメよ」だ、ってやつです。ここでいくら美しい言葉を用いて、殺された動物は私たちの中で生きてるとか言っても、自分が豚で、見ず知らずのキタネーおやじの中で生きろといわれるのは絶対嫌です。

 豚が実際そう思えるかどうかとかってのは、また迷宮入りしちゃうので戻ります。今日のお話は「物語の中での死をどう扱うべきか」ということなんです。私が死を描かない、描かれているものをバカにするのはたぶん「死というものはそんな簡単なものではない」ということに追加して「私には死を扱えるほどの文章力はない」と思っているのかもしれません。

 でも、それを扱えないということはつまり生きている状態の嬉しさみたいなものも扱えないはずです。扱えないのは解らないということです。自分が生きていることをまるで「ファミコンのスイッチが入っているから生きている」ぐらいにしか思ってないのかもしれません。

 でもそう考えると、もしいつか、科学かナンカの進歩で「ヒトが死ななくなる日」がきたら、ヨノナカの物語の半分ぐらいが笑い話になってしまうかもしれません。ヒトはいつか死ぬから、物語ってあるのかなぁ……なんて思って見たりもします。

 よく、日誌を描いている中で文章があっちゃこっちゃいくことが多い私ですがそんな時は大概自分でも解らない問題に自分で問いかけて、最後に答えらしきものが覗いたりします。今回もそんな回になりそうです。なんとなく、解りました。多分、ちゃんと生きようとすると、死って考えずにはいられないんだ、ってことなのかもしれません。ならば、物語の中で死が出てくるのは、それほど特別なことではないのかもしれない……。

 こんどから豚丼を食べる時は、いつか自分だってこうなる可能性(ぇまじ?)がゼロではない、そう思いながら食べてみます。なんとなく食べられないかなって思いましたが、一周回って、可哀想というようなキモチよりも、遅かれ早かれ自分もいつか死ぬ、おまえと一緒だ、と思ったら、ガッツリ喰ってやろうと思います。

 ああそうか……自分はどこかで死とは全くかけ離れた存在だと思っていたから、私は死を書けなかったのかもしれないなぁ……。物語って、こうも製作者に強く問いかけ、自分をほじくりかえさせるものなのですか……。

 やっぱ器じゃないかなぁ……あたくし……。

 いやいや、どうせ負けるなら、とりあえず戦って負けよう……っていやいや、勝とうとしなさい。