逆転しよう! イッキYO! YO!

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なんともヒニクなもので、このブログを書いている者は一次創作をしているのだから、あまり二次絵を描くのはどうしたものかと思ってみたものの、プリキュアの女の子の絵がないとかえって不自然感が否めないというブーメラン。そんなもんなんでしょうかサマーナイト。

世間はオリンピック決定一色です。僕も、これから始めてメダルを取れそうな競技はなんだろうと考えてみましたが、もしメダルを取るとTV出演とか雑誌の取材とかで色々忙しくなって製作できなくなるんだろうなと思い、まぁ、見るほうに回ろうということにしました。えへん。

でも、湾岸に大きな建物がたくさん出来るんですから、コミケが巨大化する可能性を考えるのは悪くないです。ですが、人間が一日に回れる範囲ってもうあのビックサイトの広さでいっぱいいっぱいの気もします。え?その歳までコミケ行く気なのかよって?もちろんです。恋は一瞬コミケは一生。7年後は28歳。うそ。

オリンピックの話はすっとびまして。コミケだけじゃなくても、今後、今までの概念とは違った生き方を選択する人が増えるんじゃないかなと思います。たとえばですよ、これまでガンガン働いてきた40代のオトコが、結婚しないと開き直った時なんかもう。

たとえば、親の残してくれそうなおうちがあって。いくらかの貯蓄なんかがあったりしたら、退職金とその後の経費の逆算で早期退職レッツゴーもあながちない話ではないと思います。余生を、研究でも製作でも好きなことに当てられますもん。

僕たちの少し上の世代のひとたちは「そんなの、哀しいよね」っていう論調なんですけど、これは多分に受動教育層(=そんな言葉あるか知らないけど「導いてくれる先生がいて、教科書があって、それらの都合に合わせて生きてるとエライ!って言われる層」)の嫉妬も含まれるような気がします。彼らは、自分の幸せについて向き合う間もなく、メディアが推進する素敵な状態を素敵だと信じて生きてきたのですから。

ええ、もぴろん、そんなの、逆に何も持っていないお前の嫉妬じゃん!というお声は甘んじて受けます。ただいまって言う相手がいて、飛びついてくれる子供がいる幸せに勝るものがあるのか解りません。でもこの件に関して、嫉妬でもジェラとでもやきもちとでも、僕がどんな風に言われてもイラッとかないんです。これが好きでやってますし。おすし。

僕にとって、そういう、いわゆる幸せっぽい幸せと、自分が今、製作を続けられる幸せは、結構同列なんです。1位と2位があるかもしれませんが、2位でも3位でも、嫌いな2位3位ではないので、問題なしです。コミケや製作以外にも、そういうまた別の幸せを見つけてしまった人って、僕の世代は結構多いような気がしますさ。

その受動的なんちゃらですが、僕たちの世代は境目、というか、ハシリなんではないかと思います。何のか、っていうのはですね。
「教科書を読み込み、先生のお言葉を、お行儀よくクチをあけて待っていられる人が偉い。先生が言ったことを一番上手に復唱できるひとが頭が良い。先生の後についていって、その列からなるべく外れないようにできるひとこそが社会人」 という概念に対して「あれ?なんか違うんじゃないか?」って気がつき始めた人が出てきた境目ではないかと思うんです。今の人はこれ、結構、普通に感じてますよね。うちらのころは革命でしたの。

反社会的行動を賞賛してる訳じゃないですよ。僕もそういう人は嫌いです。でも、自分の生活する社会において、「教科書が無いこと」、「先生がいないこと」について声高らかに不満をうたう、優良で幸せな大人にはなりたくないです。「ルールの徹底が急がれます」「国の指導体制に問題があります」。言葉は難しくなっても、やってることは、自分の未熟は誰かのせいだ!と言ってるだけですよね。しかもド真顔で。

話し戻りますが、DL製作は、教科書がないですし、先生もいないです。頼れるのは自分のカンとか、腕とか、経験だけで。僕はこういう戦場が大好きです。カッコつけて言えば、生きるとはどういうことなんだ感を満たしてくれる気がするんです。とかなんとかカッコこつけてますが、社会を構築してくれて、日本を背負ってくださっているかたがたの苦労を馬鹿にする気は毛頭ございません。どっちが偉い、ではなく、僕はどっちが好き、というお話でして……って、あーもう、挿絵のうららが全然関係ないことに。ごめんうららちゃん。いつものことなんだ。

ヒキコモリおやじが自分に都合よく社会を見るとこういう風に見えますよ、という手記でした。