コトバはココロを越えない?

091206.jpg たとえば、頭の中にある物語を、なんかのスイッチでばばばばっとテキストにすることが出来たら、どういうことになるだろう。そのスイッチっていうのが、思ったことが全部出てしまうというシロモノなら、社会通念上本当は書いてはいけない、ふさわしくないものまで出てきそうだ。
 
 でもそんなスイッチは無いから、物語が消えないうちに一生懸命ノートパソコンに打ち込む。確かに、鉛筆で書くよりはるかに早いから。でも、活字化というのは、自由な思いをどこかの木にぐるぐるに縛り付けているようにも感じる。
 
 それに、PCの持つ美しいゴシック体を使っていると特に、思いはぶったぎられていく。お口に合うように小口切りにされたニンジンみたいだ。
 
 
 

  そんな思いを、いっぺんに、もっとたくさんの意味を表せる言葉をしらないから、ひとつひとつ、数珠繋ぎで思いをつづる。この工程で社会通念には、なるべく合致していく。同時に、もう、言葉に含めた思いは、身動きが取れなくなる。
 
 身動きが取れなくなった言葉は、思いの代わりに、カタチを作ってくれる。このカタチがそれなりに美しいと、いつのまにか満足してしまう。自分が伝えたかった物語はこれだろうか?そんな疑問も、ボリュームをどんどん絞られて、鳴っていても、もう聞こえない。
 
 言葉は、普段僕が思っている言葉から優先的に使われるはずだから、言葉が導き出した物語は、僕いままですごしてきた社会に沿うことになる。これが作家性とか、視点とか、そういうものなのかもしれない。
 
 こうして、物語というカタチをもった文章が、整理されたものになる。この物語の中に、みんなからみた僕=他人が過ごしてきた社会を覗くのは、人によっては面白いことかもしれないけど、ほんとのことを言えば、書くほうとしてはまるでつまらない。どんな表現やどんな上手いカタチができても、きっとどこかで見たことがあるものだから。
 
 僕の頭の中にある物語は、生まれた瞬間はきっとわくわくするものなのに、活字になるといつのまにか、わくわくを強制させるものになる。それどころか、余計なお説教までついてきたりする。
 
 この一連の文章の末文は、文頭の「たとえば頭の中に~」というとこを少し変えて引用した後、「だから僕はこう言う物語を書きたい」というノウガキが来ようと思っていたのだけれど、たぶん、コレがいけないのかもである。
 
 ここで、僕が伝えたいことはきっと、みんなも感じることがあるかもしれない「思いと言葉の細すぎるバイパス」のようなものだと思う。コレはとってももやもやしたものなのに、最後の一文を用いれば、むりやりカタチを与えてしまう。これで、このカタチを凝視することになり、私も読み手も、それ以上思いをはせることはない。いわんや「思いと言葉の細すぎるバイパス」という比喩も、恐ろしく危険な存在の言葉だ。
 
 最後の頼みの綱である読み手側が、思いをはせることをやめたら、ただでさえ言葉に端折られた物語はいよいよ瀕死状態におちいる。物語が死んだとき、その費やしてしまった時間を肯定するように感想を探すのは、キレイなふたをして見えないところにしまいたいだけなのかもしれない。
 
 物語をもう一度味わおうと思うなら、再びその物語の中に入るしかない、文章なら読むしかない。その時間の中にのみ、本当の物語は存在していて、手触りのよい、もちやすいカタチはそのあとに、別のお土産として存在するのかもしれない。もちろん、それらは良質のモノに限るけれども。
 
 
 ……「僕」とか言っちゃって、キモイっちゅうねんて話ですよね。こういうの、エッセイっていうんすかね……? たまには許してちょんまげら聾