秋風の季節となりました。いかがお過ごしでしょうか。タイトル名でもわかるとおり、久しぶりに(でもないですが)、高石が愛を語ります。ちょうどいま、プリキュアマンガの方で、愛されるということをテーマに描いてまして。まったく。ねぇ。何を描いてるんだか。挿絵がおっぱいなのは仕様です。とりあえず張り切って参りましょう。
結論から。「愛せない者は、愛されない」、です。 まず、ここへたどり着くまでに、人は、傷だらけになります。でも、こういう漠然とした、まるで誌的のように感じるこの表現は、なんとなく心に来ますけど、じゃあ具体的にはどういうことだろう?となります。
そこで、具体的に考えて見ました。とある、一風景です。男女のカップルがレストランにいます。そこへ、店員さんが、間違ってオーダーを持ってきてしまいました。すると、男性が、店員さんを罵倒しました。女性はスマホをいじっていました。なんだこの最悪な空間。
はい、空想じゃなくて、実際に自分が見た光景です。そのあと自分は、すぐに所用で席を立ってしまいましたが、顛末が気になって。ここからは経験とマイ理論にもとづく空想です。
罵倒した男性は、自分の利益にしか興味ないタイプの男性です。「利己的タイプ」とします。相手が見えていても、自分に利益がなければ、無視する思考です。女性は「自己中心的タイプ」とします。相手が見えないタイプです。
両者の共通点は、平たく言ってしまえば、自分さえよければヨイ、です。この二人がお付き合いしてるのは、理由がアリマス。そうです、ここにもこのブログお得意の「類友の法則」が適応されます。この光景を良しとしない人は、この二人と一緒に食事をしたくないから、自然と、この振る舞いを互いに許せる=気にならない二人が、残りあうのです。
そして、時を重ね、二人だけの時間が多くなってくると、もっと自分のことを考えてくれと相手に求め始めます。でもその相手も、自分へ利益をもたらしてくれる部分しか興味ないから、多くの場合、それを拒否します。相手も同じ。もうお分かりですよね。こうして最後は「相手は自分のことを何も考えてくれない!」となるのです。鏡に怒るように。
しかし、人間二人が寄り添う理由は、愛情だけではありませんから、互いに無関心の、この関係を好む人も居ます。いわゆる、「自己愛の居場所」を、互いに見つけている場合ですね。
ほかにも、利他的な人=とにかく人に気を使いすぎる人は、無意識に相手に対して劣等感を植え付けることもありますので、度が過ぎるとめんどくさい存在になったりします。ただ、この尺度はそれを受ける相手次第なので、絶対値ではなく、相対値になります。このあたりも類友の法則に所以(ゆえん)します。
では、高石的今日のまとめです。「愛するとはどういうことか」。相手のことを考えること?いえ、ちょっとだけ、違うかもしれません。愛するとは、自分のことを考える暇がなくなるということです。
あれ?なんかステキにキレイにおちてますよね!?マンガの原案なのに。もちろん、上記のことをそのまま描きませんが、こういうベースにあるモノが無いと、アツいマンガになりにくいのです。
でも、この手の語りは、数日後に見て、うおおおんって冷や汗でるのまでがセットです。