現場至上主義

 まだ、社会人をしていた頃、私はある組織の管理職に居ました。現場に対してマニュアルを作り、その遂行を監視するような役目です。しかし、アルバイト君たちは人間なので、こっちの予定通りの動きをしてくれません。すると私は、何でできないんだろう、みんなのスキルが低いからかなって思っていました。


(痛い文が予想できますが、続きへ・・・)







 その管理職とやらに着く前、私はそのアルバイト君でした。上からのムチャな指示にいつも呆れていました。現場をしらなすぎる。現場と上の温度差がありすぎる。だから、自分は現場を知っている指導者になるんだ!と思いました。

 でも、いざなったら、自分では今までの管理者とは違う!と思い込んでいるのに、現場が動けないという現実は変わりませんでした。最初は、私のタイミングで色々なことを変えてしまったから、現場が戸惑っているのだ、って思っていました。

 このあと、私がどうなったかについては(面白そうではありますけど)、今回の焦点ではないのです。今回の焦点は、「現場と管理部の方向、意志の差」についてです。なぜこれが「製作論」のカテゴリーにはいっているかというと、これはそのまま「プロット」と「作文(=実際に文を作る作業の意味ね)」というものにそっくり置き換えられそうな気がするんです。

 「プロット」とは管理部からの指示。こうすればおもしろくなると「思いこんでいる」マニュアルとします。「作文」は、そのプロットにしたがって書こうとする現場とします。プロットと作文を、今は同一の高石という人間がやってますから、そのルールをぶち壊すのも尊守するのも高石次第です。

 最初、私は、プロットとは必ず守られるべき物であると思っていました。しかし、それでは作文中に湧き出る多くのものが失われることに気がつき、同時にその湧き出る物こそ、物語の本質であることに最近、気がつきました。つまりプロット段階では影も見えなかったものが、作文では鮮明に見えてくるのです。

 職場の管理マニュアルは、多くの場合その道の経験者が作成する物なので、現場を知らない訳ではないのです。しかし、どうしても現場との温度差が産まれてしまうのは、現場とは、同じ物は二つとしてないからかもしれません。時系列にならべて、一週間前の現場と今の現場は、同じ場所でもまったく別物として存在するようです。

 とすると、マニュアルは作れません。管理部の視線では現場は解らないんです。大雑把なトコまでのマニュアル、そんなものマニュアル化する意味がありません。価値があるとすれば過去業務の統計記録という資料としてだけです。

 とすると、「物語進行マニュアル」としての「プロット」は作れないのかもしれません。でも、過去の物語がこういう方向に行って、人気を得たよ、という参考記録資料としては重要です。それに習っていくことで、表現の説得しやすさをえることができます。

 プロットとは、本来作文や小説を作る作業そのものではないこと、コレを重々知った上で、プロットは有用だと思えます。しかし、「初心者はプロットを作った方がヨイ」、おそらく多くの作法書に描いてある言葉、私はコレは危険だと思います。その「初心者はプロットを作った方がヨイ」と綴った人間が「物語とはナニモノだ」について考えたことが無いのならコレは恐ろしい毒になります。有害図書指定です。

 「なぜ、物語を描くのにプロットを作った方が良い」のでしょうか?「破綻を防ぐため?」「進行を手詰まりにしなくするため?」もうこの回答自体がナポリタンを作ろうとしてるのにハッシュドビーフの作り方を議論しているような物です。答えはそこにはありません。「物語とはそういうものでわナイから」だと、私は思います。

 でも、「プロットを作る理由」を説明するのに、この方が手っ取り早いし、私のようなデンパ人間以外には私のウダウダ理論はただの精神論にしか映らないでしょう。 だからやっぱり「初心者はプロットを作った方がヨイ」となるのでしょうが、本当に壁に当たって、どうにかして道を見つけたものならば、行間にきっと強いメッセージをこめることができるでしょう。


 関係ないですが、「そんなの簡単だよ」って答える者は、多くの場合その本質を知らないことが多いのではないかと思います。自分が乗り越えてきた部分なら「あー!オレもその壁当たった!」って、きっと共感して、嬉しくなって、自分の解決した方法を伝えると思います。


 今回書き留めておくべきことは、作品が「現場」なものは現場至上主義で。作品が「管理部」を見せるもの(=追跡ドキュメントみたいなものかしら)管理マニュアルを作ればいいと思います。実は当時、私は、あまりに管理部のつまらなさから、給料下げてもらって、現場に戻りました。

ちょっとステキなオチでしょ(自分で言うな
現場サイコーです。