さすがに今日は、こんな手記を残そうと思っています。例によって世間知らずがカタってます。痛さも含めてお楽しみ下さい。楽しいプリキュア話は又、後日(壮大な面白話があります)。
サンてんイチイチ。デジタル時計が3時11分を示すだけでも何かを思い出してしまう人もいるかもしれません。あれから丸三年です。僕は埼玉なので、周りに甚大な被害を受けた方はいないのですが、これだけTVで特集を組めば、そりゃ僕の安い共感能力でも共感せずにはいられません。
突然ですが。僕の生活における年収は、たぶん、同年代の半分も無いと思います。そんな下の下の人間が思うことを書きます。この日本というシステムが、いかに見栄ときれいごと優先で作られていることかと思うからです。便利すぎる日本語が、そこかしこで、なんと都合よくキレイゴトとしてつかわれていることか。
たとえば……うーん、たとえば。横断歩道を渡ろうと、赤信号で待っている。すると、青に変わったので歩き出す。でも、よこから、黄色で突っ込んだ車がすっとんでくる。車が信号無視です。普通は、このまま進んだらハネられちゃうから、止まるでしょ。でも、日本人は、「僕は青なんだから、そっちが止まれ」と言わんばかりに進む人が多い気がする。それでハネられて、事件になっても、あたりまえだけど、車が悪いって報道になります。
「自分が正しいことをしているから、決まりを守っているから、僕は保護されるべきだ」 でも、ハネられたら結局、痛いのは自分。こんなふうに、「このキマリがある。だからこうする」ということを最優先する。痛い目を見る、場合によっては死んでしまうことすらもいとわない、というか、「見えない」のかも。
原発問題や、防潮堤問題。電気料金もそうだし、大きく考えれば地球の燃料問題も。「問題は山積みです。では又明日」と言って終わるニュース番組。だれも、ほんとうは、そのことについて何も考えていない。考えているのは自分が決まりに対して沿っているかどうか。自分が他者から非難されないようになっているかどうか。もちろん、そうしなきゃ秩序とかは無くなっちゃうけど、都合のいいときばっかり、綺麗で便利な日本語を持ち出してるような気がして、なんか、やだ。
なんでこうなっちゃうのかな?ってよく考える。うん、まさにこれは「ひとりひとりが問題意識を持つべきでわないでしょぉか」。キタこれ。あほか。これこそ、耳心地のよい便利な日本語。思考が停止できる。さじぇすちょん感もいっぱい。意識を持ちましたイェイ。いや、そんなものを考えようとしてるのではなく。もう一度考える。何で何も解決しないのか。
上手く言えないけど、いまの日本は、なに不自由ない生活が当たり前すぎて、「自分、生きたいか?」って考えるチャンスが少なすぎるのかな、なんて勝手に思います。みなさんはどうでしょうか。「自分は生きて、何をしたいか?」自分に問うたこと、ありますでしょうか? 僕は、ご飯が食べられなくなってくると、または銀行の残高が1000円切ると、思います(ということは結構な頻度)。
「自分が何をしたいか」を考えなければ、生きる中心棒みたいなものがなくなっちゃうじゃないすか。でも他者から見て生きてる感は欲しいから、誰にも怒られない「規則に合わせて生きる」が消去法で残るのかしら……とか考えたりもします。
でも、とか言っても、やりたいことが解らない時、たくさんありますよね。それは解らないんじゃなくて、向き合ってない、考えてないだけだと思います。仕事も娯楽も、与えられたものを処理し続けるだけだと、考える、というか想う能力が腐る気がします。
じゃあ自分は考えてるのかな? 単純ですが、僕はやっぱり、もっと面白い作品を創りたい。上手にマンガや絵を描きたい。明日はもっとたくさん、上手くなっていたい。だからまだ、死にたくない。その程度です。それにまだ福園さん(キュアハッピー)から告白されてもいないし。ほざけ。
まぁ、ほぼニーツがなにやら語っても、何の説得力も無いんですけど。とにかく、自分が死に直面したとき「よし、オレ、ここまでだけどなかなかよくやったわ」と思えればいいと思って、製作には向かい合ってるつもりです。
で、ガンバ描いてみた、ということです。ねずみアツい。