私はこういうものです

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「絵師」って言葉にも慣れました。「ぼく、フォトショ使いです」ってのにも違和感がなくなりました。「私、ニコニコで歌い手やってます」という人にも、スゴイデスネーって言えます。「絵が趣味です」「フォトショップを使います」「ニコニコに自分の歌をUPしてます」でいいじゃん、とか、いちいち思わなくなりました。ええ、今日はひさしぶりに(でもないけど)オレ語りです。

こういうこと考えはじめるのはもうたぶん、歳なんです。なんか、そういう肩書きっぽい呼び名で自分を自称してオレカッケーってなるのも、その肩書きを他者の「取っ手」(←持ち運びしやすい、使いやすい表現、みたいな意味で)として取り扱いやすくするのも、まさに現代のネット文化、時代の流れかと。

多分。このネット文化ってのは、とにかく情報が多いから、早い段階で対象にレッテルを貼って処理していかないと、きっと、間に合わないのだと思うのです。それに不確かな相手が、自分で自分にレッテルを貼ってくれるのは、便利ですしね。

でも、ほとんどの場合、自分より上位の肩書きをカッケー自称したがるものですので、その言葉の持つ本来の意味が陳腐化されるのでしょう。これもう、しょうがないのかもです。そういうのの法律無いし。

率直に。僕は「絵師」って言われたら、葛飾北斎を連想します。画家といったらルーベンスです。歌い手といったら中島みゆき、フォトショ使いといったらネクロマンサー的な超越した力を扱える何か(なんだよ)を想像してしまいます。起因するものは、もちろんその製作物のクオリティもありますが、その人たちが、費やした時間とか、評価や実績、なにより生き様です。

すぐに「あの人、神!」っていうのも同じですよね。誇張表現で面白くして、それで楽しんで、消費してしまう。そこで一番怖いのは、やっぱり思考停止だと思うんです。相手にレッテルを貼った瞬間、相手についてそれ以上考えなくなる。面白いところだけをすくいとってすぐ次のエサへ。まるで夢を食べ続けるバクです。なんかうまい比喩のような気もするのですが、果たして伝わっておりますでしょうか。てへ。

大体にして。こういうグダ付いたことを日誌に載せるのは、文章を書く時間が多い時です。で、その思考停止を恐れていますオレカッケーでしょ、の理由なんですけど、多分、多くの様々な行動の目的が、自分に落とし込んで栄養にしようというより、だれかと共有しようというほうが強い気がして。

仮に、「共有したい」という欲求の根底にあるもののひとつは「僕は間違っていないよね、みんなと同じだよね」という安堵だとしたら……あれ、別に問題ないぞ。人は集団で生きる生き物です。集団から外れたものから、やられていきます。集団を操作しようとしてる者にとっても良い状態だけど。

でも、なんかヤなんですよね~。そうやって僕もみんなと同じ流行にノリノリでぇ~すっていうの。かといって完全にはずされた上に敵視されるのもいやだな~。このどうしていいかわかんないモヤモヤが僕の製作の原動力なのかな~とか思いました。僕は安心できる肩書きをもらったら、絶対そこで安穏とするだろうし。だから僕の肩書きはいまのところ、一次創作同人作家、という極めてけったいなもので充分です。肩書きはジツリキがともなってからで。

あ、小説初稿終わりました。5万字だって。バカか。それどうすんだ。誰が読むんだ。考えます。